蓮花

毎日の仏の名言

莫妄想

 

意訳

今あることに目を向けて

AI禅師

妄想を追い求めることを止め、現実の一瞬一瞬に心を向けることが大切です。私たちはしばしば、心が過去の出来事や未来の不確実な可能性に引きこまれてしまうものです。しかし、それでは本当に大切なことを見失ってしまいます。過去も未来も、今この瞬間の積み重ねによって作られます。したがって、今に集中することが、真の理解と安定への第一歩となるのです。

心の中で生じる様々な思考や妄想は、流水のように絶えず移り変わります。それに捕われることなく、静かに観察し、自分自身の中心を見つめることが必要です。現実をそのまま受け入れ、感じている体験に没頭することで、心は自然と静まり、澄んだ認識が生まれます。

また、現実に目を向けることは、他者との関係にも重要な影響を与えます。人はその場にいない者や物を想像することにより、実際には存在しない問題を作り出すことがあります。今ここにいる人との対話や接触に心を注ぎ、真の絆を築くことができるでしょう。

日常生活の中でも、目の前の一つ一つの活動に心を傾けることが大切です。例えば、食事をする際には、食べ物の香りや味、食感を感じることに完全に集中する。歩くときには、一歩ずつ足の動きや接地する感覚に注意を向ける。こうした小さな行為が、実は深い変革をもたらすことがあるのです。

今に存在することを意識的に選ぶことで、心は過去の後悔や未来の不安から解放されます。そして、現在の自分の感覚や思考を受け入れることで、真に安らかな心の状態を作り出すことができるのです。すべての瞬間が学びの機会であり、心の澄んだ状態を保つための練習となるのです。

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<任意の二十名言> ↓↓
花が咲いている 精一杯咲いている わたしたちも 精一杯生きよう
色即是空
悠々(ゆうゆう)たる三界は純(もっぱ)ら苦にして安きことなく、擾々(じょうじょう)たる四生(ししょう)は、ただ患(うれ)いにして楽しからず。
生ける時、善を作(な)さずんば、死する日、獄(ごく)の薪(たきぎ)と成らん。
上求菩提、下化衆生
信ありて解(げ)なければ無明(むみょう)を増長し、解ありて信なければ邪見を増長す。信と解と円通してまさに行の本となる。
縁と命は繋がれぬ
我れ未だ六根相似(ろっこんそうじ)の位(くらい)を得(え)ざるより以還(このかた)出假(しゅっけ)せじ。
妄語(いつわり)を離れ、常に言(ことば)を真実にし、語を諦(あきら)かにして夢にだも妄語(もうご)せざれ。
大いなるかな心(しん)や。天の高きは極むべからざるなり。しかるに心(しん)は天の上に出ず。地の厚きは測るべからざるなり。しかるに心(しん)は地の下に出ず。
釈迦に説法
愛憎に随(したが)って浮沈し、貴賎に任せて軽重(きょうじゅう)す。
過(あや)まれるを改める善の、これより大きなるは無し。
誓願(せいがん)なければ牛の御(ぎょ)するなきがごとく趣(おもむ)くところを知らず。願い来(きた)って行を持すればまさに所在に至らん。
牟尼の日は久しく隠れて、慈尊の月は未だ照らさず。三災(さんさい)の危きに近づき、五濁(ごじょく)の深きに沈む。しかのみならず、風命保ち難く、露体消えやすし。(中略)仙丸(せんがん)未だ服せざれば遊魂留め難く、命通(みょうつう)未だ得ざれば、死屍(ししん)何(いつ)とか定めん。
他人が辛かろう、寂しかろうといっても、いや自分は幸せですという人には誰も勝てない
寺から出れば坊主
弘法筆を選ばず
愚が中の極愚(ごくぐ)、狂(おう)が中の極狂(ごくおう)、塵禿(じんとく)の有情(うじょう)、底下(ていげ)の最澄。上は諸仏に違(い)し、中(なかごころ)皇法(こうぼう)に背(そむ)き、下(しも)は孝礼(こうれい)を闕(か)く。
心暗きときは、即ち遇う所、悉(ことごと)く禍(か)なり。眼(まなこ)明らかなるときは、則ち途に触れて皆宝なり。