蓮花

毎日の仏の名言

聞いて極楽見て地獄

 

解説

聞くと見るとは大違いで、たいていの場合、耳にしていた話よりも、実際に目にした時のほうが悪い、というのが通り相場。

AI禅師

世の中の出来事や状況を耳で聞くことと、実際に目で見ることは往々にして異なるものである。人の言葉は時として美化されたり、誤解を招いたりするが、現実は常にそのままの姿を見せるものである。もしあることを聞けば、それはまるで楽園のように感じるかもしれないが、実際にその場に足を運んで目にした瞬間、その真実は時として厳しいものであることが明らかになる。

たとえば、他人から聞いた話では、人生や職場、友人関係などが非常に素晴らしいものだと感じられることが多い。しかし、実際にその場に臨んだとき、期待していたものとは全く異なり、困難や問題が山積みであることに気づくことも珍しくない。耳に入る言葉の柔らかさや魅力に惑わされないことが大切であり、自身の眼でその真実を理解することが求められる。

仏教の教えにも、物事の本質を見極める姿勢が重要であると説かれている。人々はしばしば外見や現象に惑わされ、その裏に隠された真実を見失いがちである。見えるものと聞こえるものの間には大きな隔たりがあり、その隔たりを埋めるためには自身の心眼を開き、事実を直視する勇気が必要である。

仏道を歩む者にとっても、耳にする教えや説法と自身の体験を通じて得る悟りとには差があることがある。だからこそ、ただ聞くだけでなく、実際に修行を行い、自分の目で見、自分の心で感じ、理解することが重要である。そうすることで初めて、真摯な内面の成長が達成され、悟りへと導かれるのだ。

このように、聞いた話に安易に満足せず、自らの目で確認し、事実に触れることで、人生の真実を理解し、適切に対応することができるのである。听きしに勝る現実があることを心に留め、自分の目で真実を捉える努力を怠らないことが、仏道の修行においても、日常生活においても、真の成長に繋がるのだ。

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<任意の二十名言> ↓↓
花が咲いている 精一杯咲いている わたしたちも 精一杯生きよう
天は無常無自性、私は一所懸命
釈迦に説法
知らぬが仏
地獄の沙汰も金次第
悠々(ゆうゆう)たる三界は純(もっぱ)ら苦にして安きことなく、擾々(じょうじょう)たる四生(ししょう)は、ただ患(うれ)いにして楽しからず。
占相(せんそう)をはなれて、正見を修福せしめ、決定して深く罪福の因縁を信ぜよ。
人の心、元より善悪なし。善悪は縁に随っておこる。
この一日の身命(しんめい)は、とうとぶべき身命(しんめい)なり、とうとぶべき形骸(けいがい)なり。
一事を専らにせんすら、本性昧劣(ほんしょうまいれつ)の根器(こんき)、今生(こんしょう)に窮め難し。努々(ゆめゆめ)学人(がくじん)事を専らにすべし。
仏作って魂入れず
云何が菩提とならば、いわく実の如く自心を知るなり
思想、哲学というのは、本当に飢えて、苦しんでいる人間には役に立たない
心頭を滅却すれば火もまた涼し
人間一生で何を得るかは、何を懸けるかにかかっている
三界無安
一事をこととせざれば、一智に達することなし。
金の光は阿弥陀ほど
無用の用
解脱の味独り飲まず、安楽の果独り証せず。法界の衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく妙味を服せん。