門松は冥途の旅の一里塚
「めでたくもありめでたくもなし」と続く一体禅師の作と伝える狂歌の上半句。正月を祝って立てる門松も、死への旅路の一里を刻む道路標にすぎない、と思えば生きることのありがたさが一層痛感される。
年の初めに各家の門前に飾られる門松。それは新年の喜ばしさを象徴するものとされるが、古人である一体禅師の視点から見ると、別の意味が浮かび上がる。新年を迎えることは確かに喜ばしいが、同時に、それは生命の旅路において新たな一歩を刻むという側面もある。
死に至る旅路を象徴する一里塚としての門松を見るとき、私たちは終焉への一歩一歩を感じざるを得ない。その一歩が新たな一年の始まりであり、それが心に深く刻まれるのである。このように思えば、生きることの尊さが一層胸に響く。なぜなら、生命は限りあるものであり、時間は常に先へと進むからである。
仏教の教えにおいても、無常が説かれている。全ての事象は常に変わり続けており、一つとして同じものは存在しない。正月の華やかさは一瞬の出来事であり、それもまた消え去る運命にある。しかし、その一瞬の喜びが、命の蜃気楼の中における尊い瞬間として輝くのである。
我々はこの瞬間瞬間を慈しみながら、日々を生きることが求められる。過ぎ去る時間、変わりゆく現象、その全てに感謝することで、心の中に深い安らぎが生まれる。生と死、喜びと哀しみ、その全てが織りなすこの現実を受け入れることで、私たちは真の幸福に近づくことができる。
新しい年を迎える門松が、ただの装飾に過ぎないのではなく、私たちに生命のはかなさと尊さを教えてくれる存在であることに気づく時、心は深い感慨に包まれる。生きることの喜びと、過ぎ去る一瞬一瞬の貴さを味わいつつ、この世の無常の美しさを心に留めながら歩むこと。それが仏教の精神であり、我々が目指すべき道であるといえよう。
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