蓮花

毎日の仏の名言

一蓮托生

 

解説

生死を共にすることから、結果の如何を問わず、行動・運命を同じくする状態に使う。死後、極楽で同じ蓮の上に半座を分けて身を托するという意味から成る。

AI禅師

生きることと死すこと、その二つは常に我々の間に共存している。この浮世において、我々は多くの人々と関わりを持ち、互いの運命を共有することがある。この世の中での行動や結果に関わらず、互いに結びついた関係にあるとき、それは真に深い意味を持つのだ。仏教の教えにおいて、人々は生の終焉を超えた先、浄土においてもまた同じ一つの蓮の花に寄り添い、共に過ごす運命を持つとされる。

蓮の花は清らかな水と比べれば泥々とした池から生まれるものであり、如何なる環境の中でも美しく開花する。これが象徴するものは、我々が如何なる境遇にあっても、心を清め、正しい行いを保つことができれば、その先にある安らぎの世界で同じ花の下に共に安らぐことができるということだ。

日々の暮らしの中で、我々はさまざまな試練や困難に直面する。それでも、仏教の教えを胸に、善行を重ね、慈悲の心を持ち続ければ、すべての行いは意味を持ち、最終的には安寧の世界での共存へと至る。これは死後の話だけではなく、生きている間も同じことである。互いに支え合い、共鳴する心があれば、どんなに困難な状況も静寂と安らぎに満ちたものである。

結局、人生の旅路で一人ではなく、誰かと歩むということが大切なのである。共有する心や行動が、互いに力を与え合い、その結果として、真の意味での安らぎを得ることができる。それこそが、仏教の教えであり、この世とあの世の両方での安寧を意味する道である。

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三人寄れば文珠の知恵
物の興廃は必ず人に由(よ)る。人の昇沈は定んで道に在り。
生ぜしもひとりなり、死するも独りなり。されば人と共に住するも独りなり、そ(添)いは(果)つべき人なき故なり。
人の悪きことはよくよく見ゆるなり。我が身の悪きことは覚えざるものなり。我が身に知られて悪きことあらば、よくよく悪ければこそ身にしられ候(そうろう)と思いて心中をあらたむべし。
ありがとうの一言が周りを明るくする。おかげさまの一言が自分を明るくする。ありがとう、おかげさま。これが仏教の心です
炎は空に昇り、水は降りざまに流る。菓子の中に酸きあり、甘きあり。これらは皆、法爾(ほうに)の道理なり。
得がたくして移りやすきは、それ人身(にんしん)なり。発(おこ)しがたくして忘れやすきは、これ善心なり。
照顧脚下
磨く地蔵の鼻を欠く
親の夜歩き子の看経(かんきん)
過(あや)まれるを改める善の、これより大きなるは無し。
心の師となれ、心を師とせざれ
我れ生まれてより以来(このかた)、口に麁言(そごん)なく、手に笞罰(ちばつ)せず。今より我が同法よ、童子を打たずんば、我がための大恩なり。努めよ、努めよ。
一事をこととせざれば、一智に達することなし。
灯心で須弥山を引き寄せる
根深ければ、枝しげし、源遠ければ、流れながし。
鳥と虫鳴けども涙落ちず。日蓮は泣かねど涙ひまなし。
牟尼の日は久しく隠れて、慈尊の月は未だ照らさず。三災(さんさい)の危きに近づき、五濁(ごじょく)の深きに沈む。しかのみならず、風命保ち難く、露体消えやすし。(中略)仙丸(せんがん)未だ服せざれば遊魂留め難く、命通(みょうつう)未だ得ざれば、死屍(ししん)何(いつ)とか定めん。
生物識り地獄へ堕(お)ちる
窓前の梅花に対(むか)い、その始終を尋ぬるも、因縁所生を離れざるなり。その因たるは、土中に種子を埋むるなり。その縁たるは、風雨の外に相助くるなり。