若(も)しは曠野(こうや)の中に於いて、土を積んで仏廟(ぶつびょう)を成し、乃至(ないし)童子の戯れに 沙(すな)を聚(きよ)めて仏塔をつくれる。かくの如き諸々の人たちは、皆すでに仏道を成ず。
たとえ貧しくとも、厳しい修行に耐えられなくても、荒れ果てた場所でただ土を積み上げてお堂を作ったり、幼い子供が遊びながら仏塔を作ったりするような、簡単で誰にでもできるようなことでもよいから、穢(けが)れのない純粋な心で信仰し、仏の徳をたた讃えたなら、それだけでも仏の道を成すことになる。
『妙法蓮華経』方便品第二
鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢訳した『妙法蓮華経』(406年)。「最高の教え(法華)、白蓮華のような正しい教えを説いた経典」という意味があり、生あるものはすべて成仏できると説くところに、『法華経』が「諸経の王」と呼ばれる由縁がある。
荒野の中でたとえ名もない小さな殿堂を築くことがあったり、遊び心で砂を集めて仏塔の形を作るような行為であったとしても、それらはすべて尊い信仰の現れである。貧困や厳しい修行が困難であっても、心の内に純粋な思いを抱き、仏に対する讃美を忘れないのならば、その姿勢だけで仏の道を歩むことができる。このことは、信仰の本質が外面的な行為や華やかさにあるのではなく、内面的な心のあり方に根ざしていることを示している。
『法華経』が教えるように、すべての生きとし生けるものには成仏の可能性が宿っている。この教えは、たとえ小さな行動でも、その一つ一つが大切であることを説いている。たとえ荒れた場所であっても、そこに心を込めて何かを形作るという行為には、仏への感謝の思いが込められており、時を経て人々の心に深い感動を与えることであろう。
私たちは日常の中に隠れた仏の教えを見出すことができる。遊び心から生まれる創造性や、どんな環境においても信仰の灯を絶やさずにいることは、私たち一人ひとりが持つ可能性を引き出す行為である。苦しい時や孤独な瞬間にこそ、心を真っ直ぐに保ち、仏の光を求める姿勢は何よりも尊い。大きな行いにとらわれず、日々の中で心を込めて行われる小さな行為こそが、深い信仰とつながり、最終的には仏の道を確固たるものにするのだ。
このように、信仰の一つ一つの行為は、無限の可能性を秘めており、私たちが心を向ける先には、常に仏の教えが待っているということを忘れてはならない。
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