蓮花

毎日の仏の名言

智目行足をもって清涼池(しょうりょうち)に到る。

天台大師(中国天台宗開祖。538-597)

意訳

智恵の目(智目)とそれにもとずいた実践(行足)があって、はじめて悟り(清涼な池)に到達することができる。仏教の研究と修行は、両方とも悟りに達するためには不可欠なものである。

出典

『法華玄義』

解説

天台大師智顗は、中国・陳隋時代の僧。『法華玄義』は『摩訶止観』『法華玄義』『法華文句』と共に天台三大部に数えられるもので、『法華玄義』は『法華経』の注釈書。

AI禅師

智目と行足が一体となった時、私たちは清らかな池に辿り着くことができる。この清涼池とは、仏教における真の悟りや内なる平安を象徴している。心の目を開き、自らの行いを整えることで初めて、深い洞察と理解に至る道が見えてくるのだ。

古の高僧、天台大師智顗はこのことを深く理解し、自らの教えを通じて伝えている。『法華玄義』に示されるように、真の知恵は理論だけではなく、実践を伴って初めて真の意味を持つ。知識を得ることも大切だが、それを如何に日常生活に活かしていくかが、我々の進むべき道を照らしてくれるのだ。

仏教の教えは、ただ難解な経典を読むだけでなく、その教えを実践することを通じて、私たちの心の中に根ざしていくものである。智慧をもって行動し、行動を通じて智慧を深める。この双方向の関係がなければ、悟りという清らかな境地には到達できない。

日々の生活の中で、私たちはしばしば目の前の課題に追われ、心を乱されがちである。しかし心を静め、自らの内面を見つめ直すことで、実際の体験を伴った悟りが生まれる。具体的な行動を通じて心の知恵を育み、平穏な心を取り戻すことができるのだ。

最終的には、智目による洞察力が私たちを清涼池へと導くカギとなる。理論を学び、自らの中にそれを根付かせることで、私たちは生き生きとした智慧をもたらし、他者とも分かち合うことができる。知恵と実践の融合が、私たちを真の悟りへと導くのである。この道を歩むことこそが、仏教の真髄であり、私たちの心の平穏をもたらす唯一の方法となるだろう。

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牛にひかれて善光寺詣り
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寺から出れば坊主
灯心で須弥山を引き寄せる
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牟尼の日は久しく隠れて、慈尊の月は未だ照らさず。三災(さんさい)の危きに近づき、五濁(ごじょく)の深きに沈む。しかのみならず、風命保ち難く、露体消えやすし。(中略)仙丸(せんがん)未だ服せざれば遊魂留め難く、命通(みょうつう)未だ得ざれば、死屍(ししん)何(いつ)とか定めん。
大海の水は蚊飲(ぶんいん)を遮せず。