若(も)し人散乱の心にて、塔廟(とうびょう)の中に入りて、一たび南無仏と称(とな)えれば、皆すでに仏道を成(じょう)ず。
仏や常に自覚を持って修行している人とは違い、私たちは心を落ち着かせ、冷静に物事や自己の内面を見ることがなかなかできない。でも仏さまはそれでもよいと説かれる。ただ一度でも仏への帰依を純粋な心で称えたのであれば、その清浄な心を持っている人は仏の道を成(な)すことになるのだという。
『妙法蓮華経』方便品第二
鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢訳した『妙法蓮華経』(406年)。「最高の教え(法華)、白蓮華のような正しい教えを説いた経典」という意味があり、生あるものはすべて成仏できると説くところに、『法華経』が「諸経の王」と呼ばれる由縁がある。
我々人間はしばしば心が乱れ、冷静さを欠いてしまうことがあります。心がさまよう時、何かに集中しようとするときも簡単にはいきません。仏や悟りを得た者たちは、常にその心を一定に保ち、深い瞑想と修行によって自己の内面を探求します。しかし、私たちがそのような高い境地に達することは簡単ではありません。
それでも、仏さまの教えは一度心に刻まれれば、その影響力は深遠です。たとえ一瞬でも純粋な心で仏さまに帰依し、南無仏と唱えることができれば、その短い時間の中にも清浄な心が存在するのです。この一瞬の行為が、私たちを仏の道へと導く力を持っています。心が乱れている時でも、その一声には無限の力が宿っているのです。
『妙法蓮華経』という経典には、生あるものすべてが成仏できると説かれています。この経典によれば、どんなに心が乱れた状況でも、一度仏さまに心を向けることができれば、それは仏の教えに従っている証拠です。故に、私たちは日々の生活の中で心が乱れる瞬間があっても、仏の教えを信じ、短くても深い帰依の言葉を唱え続けることが重要です。
この教えは、人々が無限の可能性を持っていることを示唆しています。仏の道は、一回一回の帰依によって築かれ、誰もがその道を歩むことができるのです。だからこそ、心が乱れていても一瞬の帰依を大切にし、その清浄な心を育むことで、私たちは仏道を成すことができるのです。
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