磨く地蔵の鼻を欠く

原文

磨く地蔵の鼻を欠く

解説

よいことをしようとして、かえって悪い結果を招くこと。お地蔵さまを磨こうとして、うっかりその鼻を欠くごとき取返しのつかぬことをしでかした失敗譚から。

妙機禅師

日々の生活において、我々は善意と誠意を持って行動することが必要である。しかしその結果が、望みと反することも往々にしてあります。仏教の教えにおいても、善行を意図して行った行為がむしろ逆効果となることがあると説かれています。

例えば、お地蔵さまを清らかにするために、その姿を丹念に掃除しようとする心は尊いものであります。しかし、行為が過ぎると大切なお地蔵さまの鼻の部分を欠いてしまうこともあるでしょう。このような失敗は敬虔な心に基づくものであったとしても、結果として仏像を損なうことになります。

大切なのは意図だけではなく、結果にも注意を払うことです。心の中で常に他者への配慮と自らの行動の影響を考慮することが求められます。我々はしばしば、自らの善意が他者にとってどのような影響をもたらすかを充分に考えずに行動しがちです。しかし、行動がもたらす結果を考えることは、真正な慈悲の心を持つ上で欠かせない要素です。

また、過ちを犯すこと自体は避けられないものであり、それを恐れて行動をためらうことも適切ではありません。大切なのは、その過ちから学び、次回にはより良い結果をもたらす行動を取ることです。謙虚な心を持ち、我々の行いが他者に与える影響を常に意識しながら、慎重に行動することが肝要であります。

仏教の教えは、失敗や過ちもまた修行の一環であると示しています。これにより、我々はより深い理解とより広い慈悲の心を育むことができます。故に、善行を行うに際しては、その行動がどのような影響を与えるかを常に考慮し、結果を見つめることが必要です。最終的には、行いの善悪を超えたところにある真の慈悲心を育てることが、仏教において目指される境地であると心得ましょう。

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