立って居るものは仏でも使う
立って居るものは仏でも使う
起き上がるのが億劫で面倒なときには、目下の者はもとより、それが目上の人や親であっても、立っている者にはつい用事を頼みたくなる。
この世の中で生きる人々は、時に大義や理想を忘れ、身近な便利さを追求してしまうものである。そんな日常において、例えば部屋の隅に座り込んでいる時に、ふと立っている他者に目を留める。すると、己が身体を動かすことの煩わしさから、誰であれ立っている人に何かしらの手助けを頼んでしまうことが多い。この現象は決して特定の誰かに限らない。目下の者、目上の人、あるいは親であっても、動いている者が便利に見えるからである。しかし、この一瞬の利便性を求める行為は、仏教の教えに照らし合わせると、我々の内に潜む怠惰やエゴの表れと捉えることができる。
仏教では、すべての出来事や行動が無常であり、それぞれが因果の連鎖の中で生じていることを認識することが重要視される。この世のすべては変わり続け、固定されたものはないということを理解することで、我々は自己中心的な考えから解放される。その結果、他者に頼ることなく、自身の力で行動する意欲が湧いてくるのである。自己の怠惰を自覚し、他者に過度に依存することを避けることで、我々は真の心の安らぎと調和を見つけることができる。
更に、人々が互いに助け合い、尊重し合う関係を築くためには、自分の役割を認識し、自発的に動くことが求められる。誰か他人に頼りっぱなしでは、共生の精神が育たない。仏の教えに倣い、自ら立ち上がり、行動することで、真の人間関係の築きと内面的な成長を追求することができるのである。
こうして、自ら行動することの意義を深く理解し、他者への過度な依存を避けることで、我々の生活はより豊かに、そして調和に満ちたものとなる。それが仏教の教えが示す真の道と言えよう。