山門から喧嘩見る

原文

山門から喧嘩見る

解説

「高見の見物」と同じ。仏寺の山門のように安全で静かな場所から、巷の喧嘩騒ぎを眺めること。

妙機禅師

仏教の教えに従って日々を過ごしていると、世俗の争いや騒動から距離を置くことが自然と身についてきます。俗世の喧嘩や争いは、人々の煩悩や執着から生じるものです。これに対して、修行者が心の中に平安を求める過程は、外界の騒然とした出来事とは対極にあります。

仏寺の門前から吸い寄せられるように見える世間の紛争も、一歩下がって観察することで、その本質が見えてきます。安寧な場所から騒ぎを眺める行為は、物事を俯瞰して客観的に捉える心の修練にもつながります。自己の内面を静かに保つことで、外界の諍いに巻き込まれることなく、冷静な判断ができるようになるのです。

多くの人々が日常的に巻き込まれる争いから、一歩距離を置くことの意義は大きいです。これにより、私たちは洞察力と共感の心を高めることができます。また、衝突の背後にある真実や、そこに潜む人間の感情を理解する助けにもなります。そうすることで、自分自身が争いの渦中に引きずり込まれることなく、より広い視野を持つことができるのです。

仏教では、内心の平穏を保つことが非常に重要だとされています。この平穏を保つためには、周囲の出来事に即座に反応するのではなく、冷静に観察し、物事をありのままに受け入れる態度が求められます。たとえ世界が喧騒に満ちていても、心の奥深くに静謐を保つことができるなら、外界のどんな騒ぎもただの風景に過ぎません。

このように、静かな場所から世間の争いを眺めることは、単なる傍観ではなく、自らの修行の一環として深い意義を持ちます。真の平穏を得るためには、内なる静けさを築き、それを保つことが何よりも重要なのです。

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