明日ありと思う心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは
親鸞聖人(浄土真宗開祖。1173-1263/覚如上人撰)
明日ありと 思う心の仇桜(あだざくら) 夜半に嵐の 吹かぬものかは
明日桜の花を見ようと思っても夜中に嵐が吹いて花が散ってしまったなら、花を見ることはできない。明日花を見ようとする心ほどあてにならないものはない。この世ははかない側面を持つのだから、悔いの残らぬよう今しなければならない。
『親鸞上人絵詞伝』
別名『親鸞聖人伝絵(でんね)』。親鸞聖人の曾孫の覚如上人が、聖人の遺徳を讃仰するために、その生涯の行蹟を数段にまとめて記述した詞書と、各段の詞書に相応する図絵からなる絵巻物として成立させたもの。図絵の方を『御絵伝』、詞書のみを抄出したものを『御伝鈔』と呼ぶ。
人はしばしば、明日という日を見越して計画を立てる。しかし、想いは儚く、いつ何が起こるかはわからない。桜の花は、春の訪れを告げる美しい存在であり、多くの者の楽しみとなる。しかし、あまりにも期待するあまり、明日、花が受けられるものと思い込むことには、危うさが潜んでいる。もしかしたら、夜の静けさを破る嵐が訪れるかもしれない。その瞬間、期待した桜を目にすることができなくなるかもしれないのだ。
この教えは、私たちに「今」という瞬間を大切にすることの重要性を示唆している。未来を見越して行動することは大切であるが、その未来が保障されているわけではない。私たちの生は、常に変動するものであり、予測もつかない出来事に左右されることもある。だからこそ、日々の中で感じる瞬間を大切にし、感謝を持って過ごす姿勢が求められるのである。
また、人生の苦しみや喜びも、桜の花のように儚く、美しいものである。この瞬間を味わうことができる幸運に感謝し、明日への期待に縛られることなく、今、この瞬間に全力を注ぐことが、自らの心を豊かにし、真の喜びへと繋がる。儚いものだからこそ、より一層大切にし、この瞬間を生きることが私たちに与えられた教訓なのだ。
このメッセージは、親鸞聖人の教えにも通じるものがある。風の吹くままに、今あるものを受け入れ、その中で心を磨き、人生の深さを味わい尽くすことこそが、真の喜びであると、彼の生涯が教えているのだ。このように、私たちは未来に縋るのではなく、今この瞬間を存分に生きることが、心の平安に繋がることを忘れてはならない。