若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆、正法に順ぜん
若(も)し俗間の経書、治世の語言、資生(ししょう)の業等を説かんも、皆、正法に順ぜん。
意根(こころの性根)が清浄な人でさえあれば、たとえ世間並みの善い教えを説いた書物や、政治的な言葉、経済の仕事などを説いたものであっても、どれもが諸法実相の正しい教えとなるであろう。
『妙法蓮華経』法師功徳品第十九
鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢訳した『妙法蓮華経』(406年)。「最高の教え(法華)、白蓮華のような正しい教えを説いた経典」という意味があり、生あるものはすべて成仏できると説くところに、『法華経』が「諸経の王」と呼ばれる由縁がある。
教えの本質は、形式を超えたところにあります。たとえそれが世俗的な書物であれ、政治や経済に関するものであっても、それが高潔な心を持つ者によって語られるなら、その内容は正しい教えとしての価値を持つのです。このように、真理は特定の形や枠組みには拘束されません。
『法華経』に示されるように、この宇宙に存在する全ての生き物には成仏の可能性が秘められており、真理を追求する姿勢が何よりも重要です。鳩摩羅什が訳されたこの経典は、「諸経の王」とされ、人々に希望を与えています。それは、私たちが持つ無限の可能性を教えてくれるものです。心の清らかさがあれぱ、どんな教えも深い智慧の源となるでしょう。
日常生活の中で交わされる言葉にも、教えは潜んでいます。たとえそれが日常的な事柄の中であっても、その裏には深い真実が隠れていることに気づくことが大切です。私たちが心を清め、まっすぐな意識で取り扱うことで、どんな言葉も私たちの成仏への道しるべとなることができるのです。
このように、教えは明確な形として存在するのではなく、私たち一人一人の心の中に根ざしています。正しい意根を持ち、無私の心で他者に接することが大切です。私たち自身がその教えの実践者となり、日常の中でそれを体現することが、真の教えを広める道となります。 жизниの中でこそ、真実の智慧が輝くのです。