ふればぬれぬるればかわく袖のうえをあめとていとう人ぞはかなき
一遍上人(時宗開祖。1239-1289)
ふればぬれ ぬるればかわく袖のうえを あめとていとう人ぞはかなき
雨が降れば当然濡れる。濡れた着物も太陽が出れば自然に乾く。雨にこだわっている人の哀れなことよ。下野国(現在の栃木県)の小野寺で通り雨に見舞われ、尼僧たちが袈裟や衣を脱ごうとした時に詠まれたもの。一時の雨に濡れただけの衣服にこだわる心を捨てることのできない様子に、「執着するな」ということを言いたかったのであろう。
『一遍上人聖絵』
実弟の聖戒の作成で円伊筆。一遍上人は大勢の念仏者と一緒に全国を遊行したが、常に孤独を抱えながら、「捨ててこそ」「独一である」と世の儚(はかな)さ、虚しさを説き、南無阿弥陀仏のお念仏を唱え、ただ歩き続けた。
雨に濡れたとて、衣服はやがて乾いてゆく。私たちは日々の中で、しばしば目の前の出来事に心を囚われることがある。しかし、雨が一度降ったからとて、いつまでもそのことに執着し続ける必要はない。小野寺の尼僧たちが袈裟を脱ぐことに戸惑った姿は、私たちの心のありようを映し出している。
目の前の苦境にこだわってしまうと、ほんの一瞬の経験に心が縛られ、人生の素晴らしさを見失ってしまう。「捨てることが生きること」だと一遍上人は教えている。私たちは、雨という瞬間的な出来事に対して心の重みを増すのではなく、雨が止めば太陽の光の下で再び立ち上がる勇気を持つべきだ。苦しみも喜びも一時のもの。それらに執着することは、心の自由を束縛する足かせに他ならない。
孤独を感じることもまた、人生の中の一つの状況である。誰しも共にいるときもあれば、孤独を抱えるときもある。それが人生の姿であり、虚しさを知ることでこそ、真の意味での生を感じることができる。縁あって出会った人々、共に過ごした瞬間を大切にしながらも、常に心の底には「手放し」の精神を持ち、ただ今この瞬間に存在することが大切である。
「南無阿弥陀仏」と唱えながら、私たちは歩み続ける。一歩ずつ、過去の出来事に縛られず、未来に怯えず、今この時を生きる。それがまさに仏の教えが示す道であり、心の平安をもたらす方法なのである。雨が降ることもあれば、晴れ渡ることもある。どちらであっても、心は常に解放され、自由でありたいものだ。