法皇牟尼は、大海の針、妙高の線を仮りて、人身の得がたきを喩況し、古賢禹王は一寸の陰、半寸の暇を惜しみて、一生の空しく過ぐることを歎勧せり
伝教大師最澄(天台宗宗祖。767-822)
法皇牟尼は、大海の針、妙高の線を仮りて、人身の得がたきを喩況(ゆきょう)し、古賢禹王(こけんぐおう)は一寸の陰(とき)、半寸の暇(いとま)を惜しみて、一生の空しく過ぐることを歎勧(たんかん)せり。
釈尊は、大洋に浮かんだ針に高いところから糸を通すという譬えで、人間として生を授かることの難しさを諭し、禹の王は、わずかな時間でも大切にするようにと、一生が空しく過ぎることを嘆いた。
『願文』
伝教大師が東大寺戒壇院で具足戒を受けて比丘となった直後、比叡山に入って、仏教者としての誓いを著したもの。世間の無常、善因善果・悪因悪果、人身の得難きこと、自己への反省、大乗菩薩僧としての誓願について記している。
釈尊は、まるで遠く海の中に沈む針に糸を通すかのように、人間として生を受けることの困難さを教えています。私たちがこの世に存在できる幸運は、偶然ではなく、無数の因縁が結びついて生まれたものです。その少ないチャンスを意識することは、人生をどのように過ごすかを考える上で非常に重要です。
また、古の賢人、禹王は、わずかな時間の重要性を説きました。彼は、自身の生活の中で一瞬一瞬を大切にしなければ、一生が無駄に過ぎ去ることを深く嘆きました。これは、我々にも通じる教えです。日々の忙しさに埋もれ、時間の流れが当たり前になってしまうと、その中で本当に大切なものを見失ってしまいます。
私たちがこの貴重な人間の命を得た以上、その一瞬をどのように使うかは自身に委ねられています。自己を見つめ直し、何が善であり悪であるかを理解し、行動に移すことが求められています。このように、自身の行いが未来を形作るという因果の法則を心に留めることで、より良い生き方を選択することができます。
仏教の教えは、私たちが自己を省み、人生の意味を見出すための指針です。無常の世界の中で、貴重な人間の命を持つ我々は、その特異な存在を生かし、他者と共に歩むことを目指さなければなりません。禹王の言葉を胸に、日々の生活を大切にし、どんな小さな行動でも善をもたらすことに努めることが、私たちの修行の姿勢であるべきです。このような心構えを持つことで、より豊かな人生となるでしょう。