智者に二あり。一は諸悪を造らず、二は作り已て懺悔す。愚者亦二あり。一は罪を作り、二は覆蔵す
智者に二あり。一は諸悪を造らず、二は作り已(おわっ)て懺悔(さんげ)す。愚者亦二あり。一は罪を作り、二は覆蔵(ふくぞう)す。
智者に二つあって、悪事をしない人と、悪をなしても懺悔できる人である。一方、愚か者にも二つあって、罪人は言うに及ばず、罪を隠ぺいする人である。覆というのは隠すことであり、自己弁護すること。
『涅槃経』
『大般涅槃経』。釈尊の最後の旅からはじまって、入滅に至る経過、荼毘(だび)と起塔について叙述する。
仏教において、智慧を持つ者と、愚か者の間には明確な区別がある。智慧を持つ者には二つの特徴がある。第一に、悪行を一切避けることができる人物である。彼らは持戒を守り、悪に手を染めることを避ける。第二に、もし過ちを犯してしまった場合には、自らの行為を深く反省し、誠実に懺悔することができる人物である。これにより、心の浄化を図ることができ、再び正しい道へと戻ることができる。
一方、愚か者にも二つの特徴がある。第一に、悪行を平然と行う人物である。彼らは、道徳の規範を無視し、他人に害を及ぼすことを厭わない。第二に、自らの罪を隠そうとする人物である。彼らは、自分の過ちを認めず、他人に知られることを避けるために、それを隠蔽しようとする。これは自己弁護の一環でもあり、真実から逃れ、自己の行為を正当化しようとする行為である。
この智慧と愚かの対比は、『大般涅槃経』に述べられている内容から理解することができる。釈尊の最後の旅から入滅、その後の荼毘や起塔の過程を記述するこの経典には、仏教の根本的な教えが凝縮されている。釈尊の教えには、私たちがどのように生きるべきか、悪を避け、もし過ちを犯した時には誠実にその過ちを認め、自己浄化を図ることが説かれている。
この教えを心に刻み、日々の生活において実践することが、真の智慧を得る道であり、愚かさから抜け出す一歩となるのである。