我れ未だ六根相似の位を得ざるより以還出假せじ

伝教大師最澄(天台宗宗祖。767-822)

原文

我れ未だ六根相似(ろっこんそうじ)の位(くらい)を得(え)ざるより以還(このかた)出假(しゅっけ)せじ。

意訳

私はいまだに六つの感覚器官(眼耳鼻舌身意)が清浄になって仏陀のそれと等しくなるような段階まで至っていない。その段階に至るまでは世に出て働くことはせず、山の中に籠もってもっぱら修行に専念しよう。

出典

『願文』

解説

伝教大師が東大寺戒壇院で具足戒を受けて比丘となった直後、比叡山に入って、仏教者としての誓いを著したもの。世間の無常、善因善果・悪因悪果、人身の得難きこと、自己への反省、大乗菩薩僧としての誓願について記している。

妙機禅師

私は、まだ六つの感覚器官が清らかで、仏陀の境地に達するような状態には至っていない。それゆえ、この段階に達するまでは、世間に出て活動することは控え、山中に籠もり、修行に専念するつもりである。

伝教大師が具足戒を受け、比丘となった直後、比叡山に入って仏教徒としての誓いを書き記した。それは、この世の無常の理を深く理解し、人間としての徳を積むことの難しさを述べている。また、良い行いには良い結果、悪い行いには悪い結果が生じるという因果の法則を認識し、自己を反省する姿勢が求められる。大乗の菩薩として、広く他者を救済する誓願を立てることが重要であると説いている。

この誓いは、仏道を進む者としての覚悟を表明するものであり、自我を超越して真理へと至る道を歩む決意を示している。世俗の愚かさや無常さに囚われることなく、内なる平安と智慧を求めるために、独自の修行を続ける必要がある。自らの心の奥深くに宿る仏性を見つめ、外部の誘惑や障害に動じない強い精神を養うことが不可欠である。この姿勢こそが、真の仏道の追求となり、最終的には自己の救済と他者の救済につながるのである。

仏教の修行者として、自らを厳しく律し、内外の清浄さを保ちながら、他者への慈悲と共に歩むことが肝要である。未来において、六つの感覚器官が完全に清浄となり、仏陀の境地に至ることを目指し、一歩一歩確実に歩み続けることを誓う。

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