生ぜしもひとりなり、死するも独りなり。されば人と共に住するも独りなり、そいはつべき人なき故なり
一遍上人(時宗開祖。1239-1289)
生ぜしもひとりなり、死するも独りなり。されば人と共に住するも独りなり、そ(添)いは(果)つべき人なき故なり。
生まれてくる時も独り、死んでいく時も独り。人と生活していても結局は独りである。人間は孤独であり、死ぬまで添い果たすような人はいない。孤独を嫌い、孤独でいることが淋しいから愛する人を求め、話を聞いてくれる人を求めても、結局、相手と自分は違い、人間は孤独であることは変わらない。
『一遍上人語録』
一遍上人の法語をまとめ、江戸時代文化年間に小林宗兵衛(円意)によって開版された。一遍上人は大勢の念仏者と一緒に全国を遊行したが、常に孤独を抱えながら、「捨ててこそ」「独一である」と世の儚(はかな)さ、虚しさを説き、南無阿弥陀仏のお念仏を唱え、ただ歩き続けた。
人は生まれるときも、死にゆくときも、また日々の生活の中においても、常に孤独であるという現実を見つめることが重要です。この人生の中で、多くの人々と時間を共にすることがあっても、心の奥深くでは自分と他者は別個の存在であり、共感や共鳴を求めても完全には満たされません。このために多くの人は孤独を嫌い、愛すべき人を探し、理解してもらいたいと願いますが、最終的にはその努力も限界があります。
一遍上人が提唱した教えは、この孤独の本質を真正面から受け入れるものでした。彼は大勢の仲間と一緒に念仏を唱え、全国を歩いていましたが、その内心には常に「独り」であるという悟りがありました。「捨ててこそ」という言葉に象徴されるように、彼は物理的なつながりや社会的な関係に依存せず、仏への信仰を軸としたシンプルな生活を送りました。
この世が一瞬の幻影のように虚しいものであると悟った時、人は初めて真の孤独に向き合うことができます。そして、その孤独の中でこそ、自己の本質と向き合い、仏の教えを深く心に刻むことができるのです。一遍上人は、すべてを捨て去り、ただ南無阿弥陀仏と唱えることで、心の平安を求め続けました。その姿は現代に生きる我々にとっても、大いなる教えと示唆を与えてくれます。孤独を恐れず、むしろそれを受け入れ、心の安らぎを見出すことが求められています。